2011年3月31日木曜日

3月30日

震災から今日で20日が経ちます。

あっという間の、20日です。
甚大な被害を受けた被災地では、まだまだ今後の長期的な
復興計画などを話し合う状況ではないのでしょう。

しかし、現実には政府や自治体レベルでも、災害初期の
非常時体制からの次の段階として、ある程度の見切りをつけた
方針が聞こえ始めました。それが、末端の避難者や支援者に
大きな不安となっています。
仮設の町役場には、不安をかかえた方が相談に。。。

厚生労働省は被災者の窓口負担を、5月末まで免除と発表
しています。しかし、津波で何もかも失った方は、5月も6月も
状況が変わるわけではありません。

昨日から、石井が現場に残り、役場の保健福祉課と皆様と共に
今後の町の医療についてディスカッションしてきました。
山王による診療という形の支援に加え、より長期的な医療支援を
話しあいました。

★問題1★ カルテ不在
  ・・・日赤、自衛隊、民間ボランティアによる診察は、2,3日~1週間で
    担当医師が入れ替わるが、引き継ぐカルテがない。医師によっては
    その日の診察記録すら残さない、または持ち帰ってしまう。  

 このことは、とても大きな問題です。
 既往歴、投薬歴、検査値の推移などの情報なしで、診察するのは
医師・患者共に大きなリスクが伴います。

 この問題に対し、「まごのて救援隊」では、

・紙カルテおよびフォルダ 500人分

を提供し、同時に過去の診察記録整理およびデータ化の
作業支援をはじめています。


また、これまでは17か所ある避難所への医師の振り分けを
町役場の担当者ひとりで請け負っていました。
これを、一目でわかるようにボードをつくりました。




本来は、当地の医療機関がすることなのでしょうが、
津波ですべての病院が消えたこの町では、何もかもが
一から、ということを踏まえた支援が必須と感じました。

夜になると、まだまだ町内各地で自衛隊さんや地元の方々が
懸命に工事をされています。帰り道も、こんなふうに
町に入る唯一の道はちょっとでも運転誤れば、川にドボン、の状態。 
今日もしっかり余震があり、ひやひやしながら渡って帰りました。

2011年3月30日水曜日

3月29日

避難所で一番腹が減っているのは誰でしょう?

(答)役場のひと。


どの自治体でも、災害対策本部は役場の方が担当され、
支援物資もそこに集まる形になっています。

役場の方は、各避難所に平等に振り分ける義務(?)
があるのですが、事実上、各避難所が勝手に調達するなど
しているため、平等に振り分けることなどできないのが現状。

みんなに振り分けた後に、役場の方に配給されるのが
暗黙のルール、となると、、、

、、、最後まで役場の方には食料が回ってきません(悲)


雄勝町の役場の皆様は、過酷な状況で仕事を続けられて
いらっしゃるにもかかわらず、1日2回の食事の内容は、
本当に僅かなもの。

そんなわけで、今日は、役場の方に優先して
食料品の支援をしてまいりました。




今日の晩御飯、おにぎり2個に汁物、そして魚一切れだったにもかかわらず、

「いやぁ、今日はすっごい豪勢だ!こんなの(震災以来)初めてだ!」

とニコニコ顔。
聞くと、野菜やたんぱく質などほとんど取っていないそう。


災害対策本部が、被災地での食料品は足りている、という
発言をされるのは、実はかなり意味深なのです。。
まだまだ、食料品の支援も必要ですね!

2011年3月28日月曜日

3月28日

3/28未明、緊急事態勃発。

高速上でガス欠寸前だ!!!!


石巻市雄勝町は、平常時なら国道を通って石巻市街からわけなく来れる地なのですが、震災によって周囲の主要道がことごとく寸断し、残された道は、長く険しい山道のみに。
しかも地震による路肩陥没や土砂崩れが至る所に放置された状態。

そういうこともあり、大型車も通れず、ガソリンも余分に消費するため(当然スタンドなんてありません)、震災後2週間を過ぎた今でも、なかなか支援の手が回りません。


また先日より、追い打ちをかけるような決定が。。。

23日までは、宇都宮以北の東北自動車道は、被災地支援の車両だけ通行可能だったので、遠方から現地入りしても、高速道上でかろうじて帰る分だけの燃料は確保できました。
しかし24日より、東北道が緊急車両だけでなく一般車も通行できるようになって、頼みの綱の高速道のガソリンスタンドまでが売り切れる事態に。

こうなると、被災地への遠方支援に来ることそのものがサバイバル。


前回24日は、決定直後で平日ということもあり、長蛇の列に並んでなんとか帰りの燃料にありつけたのですが、週末となると帰路通過する先々ですべて売切れ閉店。

燃料切れ警告サインが点滅しながら高速を南下し、最後の望みを安達太良SA給油所に賭けたが、容赦なく閉店の報。やむなく近くの二本松ICで降りる。 二本松警察署では居眠りしていた宿直のおまわりさん(^^)に親身に対応して頂いたが良案なし。
飛行機、高速バス、レンタカー、JAF、町の便利屋など考え付く限り当たってみたが、国道4号線で万事休す。

石井は朝まで二本松のガソリンスタンド前で車中泊。

そして、朝までには絶対に帰らないといけない山王は、
二本松から那須塩原まで、タクシーで。。。ひょえ~

山王を迎えにきた地元タクシーには、
「孫の手」介護タクシー
という広告が出ていた。



私たちまで、”まごのての救援”を受けるはめになるとは、とほほ(笑)



>追記
 なんと、ガソリンスタンドで並んでいたら、前に並んでいるおっちゃんが
手作りのおにぎりとメロンパンをくれたのだ。ありがとう!!!

2011年3月27日日曜日

3月27日

石巻市雄勝町3度目の訪問。
朝9:30からのミーティングに間に合うべく、土曜日の深夜に出発したのだが、
なんと!車がオーバーヒートしてしまった。連日の酷使がたたったのか??

仕方なく修理工場に車を預け、レンタカーが開くのを待ち、トヨタ パッソを借りて診療へ。
いやはや予想外のことが起こるものだ。

何とか雪道を走って雄勝町にたどり着いたのは午後4時をまわっていました。

看護師さんや患者さん、みなさん待っていてくれました。

避難所とクリーンセンターの往診を行い、外に出てみると、
満天の星空でした。電気がないと、夜空ってこんなにキレイで星がたくさんみえるものなんですね。

市の職員の中にも、過労で血圧があがったり、痛風が悪くなったりと体調を崩している人が
いらっしゃって、焚き木の傍で診察を行いました。

今夜も遅くなったので品川まで帰れそうにありません。
明日朝必ず診療に間に合うように、戻ります。

3月25日・26日

前日は東京までたどり着けず、早朝、那須塩原から東北新幹線に乗り換える。
車内で「まごのて救援隊」を立ち上げる。 名前は、かゆいところに手が届く支援が
できれば、という思いで。 雄勝町の小柄で元気な85歳おばあちゃんの笑顔が思い浮かんだ。

品川のクリニックで、まごのて救援隊の活動の一部を掲示。
宮城県が実家 という女性の患者さんは、「ありがとうございます」と涙を流さんばかりに
喜んで下さった。
皆様からの義捐金なんと3日間で 79632円も! ありがとうございます!!!

3月24日

避難生活2週間。避難所の方々は着た切りの恰好で、下着などの衣料品が不足している。

ということで、アメ横・問屋街などで
男性用パンツ 100枚、女性用ショーツ 100枚、女性用肌着 50枚
あったか靴下 100足、トレーナー 50枚、Tシャツ 100枚、ジャージ・トレパン30枚 を調達。



東京ではカップめんが売り切れているので、大阪や福岡、はたまた沖縄の問屋に相談するも状況は変わらず。沖縄の知人に話したところ、近くの問屋さんからわずかに残っている4ケースを好意で売って頂けた。知人はスーパーも回ってくれ、カップめん 150食 が石井の会社(神田)に届いた。

これらを車に積んで、石巻市雄勝町へ2度目の訪問。

ここでは2週間たって、日赤のドクターの巡回、またジャパンハートという団体等、医療チームが回診するようになった。しかし、個人宅で避難しているところなどはまだ診療を受けておられない。
この日は個人宅を1件1件 訪問診療、
さらに前回のクリーンセンターの診療を行った。

個人宅ではお茶など出していただいて、糖尿病で薬を飲んでいる おばちゃん、
ご近所さんと 話がはずむ。お茶菓子もすすむすすむ。
血糖値には よくなさそう。
それでも 明るい被災地の方々に、こちらも元気をもらう。


明日は品川で患者さんが待っている。頑張ろう。

3月21日

石巻市雄勝町は人口4000人ほどの港町ですが、町全体がガレキに埋もれ、
無残な状況でした。
災害対策本部(クリーンセンター)に入ると、寒いところでタキギをくべながら
市の職員の方が対応してくれました。


避難所には10日間、医師が来ていない。
医師も医薬品も足りない!!!と。。

その場で早速、畳の上の診療を始めました。
段ボール箱の上に血圧計を置き、地元の看護婦さんが
診察が必要な方々を集めます。

すると・・・みなさん血圧が高い!!!
上が186と下が102 え~?血管が切れそう。びっくりするくらいの数字です。

無理もありません。
着の身着のままで 12mもある津波から、逃げた人たちが、
持病の薬を持って逃げる余裕などあろうはずもなく・・・
降圧剤を震災以来10日間、一度も飲んでいなかったのですから。

しかも被災地は寒く、ストレスも多い。
避難所の食事は、おにぎり、ラーメン、トン汁など塩分多く、
野菜はほとんど口に入らず、高血圧や糖尿病をお持ちの患者さんに
いいわけがありません。。。

それでも自覚症状があまりありませんから、こっち(医師)の心配をよそに、
みなさんニコニコしています。

山王「なんて薬飲んでいたの?」
患者さん「朝 白いの1個と夜赤いの1個」

こんな調子で、薬品名はわかりませんが、手元にある中で副作用が少なく、合いそうな薬を
選んでお渡ししました。
山王「じゃ、このお薬朝1個飲んでね。ほかの人にあげちゃダメですよ」

というのも花粉症の薬がないので、拾ったコレステロールの薬を
とりあえず、飲もうとしてた女性もいたのだ。
「これは、コレステロールの薬ですから、ダメですよ他人の薬拾って飲んじゃ。」

驚くことの連続でしたが、避難所のみなさんとても明るく、素直だったのが印象的でした。

この方たちのために、何かしてあげたいと思いました。

3月20日

未明に石巻市を抜けて、太平洋側の宮城県南三陸町に到着。
道はなく、ガレキの山。



南下して石巻市北上地区に入る。
ここには1500人が避難していた。
支援品を渡し、状況をうかがう。

医薬品が不足していて、風邪薬が全くない状態。
持参した薬品の中でも、PL/ロキソニン/ 抗生物質が特にありがたがられた。
食事がごはんなどの炭水化物に偏り、野菜が全くないため、
便秘に困っている人や、余震で気が高ぶって眠れない方も多く、
足りない医薬品のリストをいただいた。

「ここより、一つ南の隣町の雄勝(おがつ)町の方が、道が寸断され物資足りない」
との情報。

3月19日

車に詰めるだけ支援物資をつんで出発。

寒さが厳しい被災地に向けて、灯油を運ぼうとするが、
灯油缶自体が既に入手困難。
遠回りにはなるが、ガソリン給油も危ぶまれたため、関越道で新潟に回り、
ガソリンスタンドのおばちゃんのご厚意で灯油缶を10缶売っていただいた。
灯油 180 リットル
食品卸問屋で冷凍ハンバーグ 100食
レトルトごはん 100食、みかん2箱 を買うことができた。

とりあえず宮城県石巻市に向かう。

この日は石井の誕生日。こんな誕生日も記憶に残る。

3月18日

インターネット上でSOSを発信していた、石巻市の石巻斉藤病院の駒木医師(部長)とコンタクトをとる。
医師が全く足りないとの報。
医師派遣を申し出たところ、是非お願いします。と二つ返事で快諾。

ところが

数分後に「病院の方針」として外部協力を受け入れないとの連絡をもらう。
不眠不休で数千人の診療を続ける医師の手助けすらできないのか・・・と落胆。

駒木先生より、避難所には診療すら受けられない人がいっぱいいます。
そちらのフォローなどできれば・・・との情報頂く。

3月14日~17日

個人で何かできることはないのか?
災害対策本部・現地の知人・現地の病院に勤務する医師・日本医師会などに
連絡を取り合う。

「個人のボランティアは控えて下さい。」という方針のところばかりで
現地避難所の困窮状態に、何をすればいいのか悩む。

3月12日~13日

被災地に何かできることはないか?
友人のいる福島県南相馬市(原発の隣町)に
とりあえず、車につめるだけつんで出発。
トラックを調達しようとしたが、困難であった。

途中ホームセンターではすでに防災グッズやカセットガスコンロなど売り切れ状態。
水 300リットル (アクアクララ25本)被災地へ、といったらご好意で売ってくれた。
カップ麺  300個 (100均の店長の好意で売っていただいた)
LPガス 8kgボンベ+コンロ(レモンガスさんの好意で貸出ししていただいた)

南相馬市の海側は津波で街がすべて消えていた。。。
市の小川町体育館(避難所)に支援物資を渡して帰る。

3月11日

東日本大震災発生
マグニチュード9.0、震度7 死者・不明者25000人を超える大惨事に・・・
石井の会社(東京・神田)も古いビルなので相当ゆれた。
物が倒れ、ビルの外には金物が散乱した。
石井の姉が福島市にいる。心配だ。
電話は不通・・・
神田から品川のクリニックまで、とりあえず走る。

山王は品川のクリニックで診療中であった。
これまで経験したことのない激しい、長い揺れだ。
避難路を確保するためにドアを開け、非常階段の扉を開ける。
カルテ庫が倒れると危険だ。職員が必死で抑えてくれた。
ガラスの花瓶が割れ、薬品棚からバタバタと薬箱が落ちた。
やや落ち着いてから危険物をすべて床に移し、
カルテと薬品棚の前面にテープで落ちないように固定した。
幸い職員に怪我はなく、歩いて帰宅してもらった。

石井と私はクリニックで翌朝まで待機する事とした。
まだこの震災がどれほどの被害をもたらすかもわからず。

品川駅付近は帰宅難民となったオフィス勤めの人々であふれていた。